前回の投稿で神社のあるべき姿とかお祈りについて書いたけど、
「じゃあ、お金持ちになりたい」とか「この学校に合格したい」っていう願い事はダメなの?という疑問がわきあがり、
一人であーでもない、こーでもないと考える。
そして、私なりに出した結論。
大事なのはその先かな、と。
お金持ちになったら何をするのか、その学校に合格したら何をするのか。
お金は手段だから、そのお金をどう使うかが大事。
学校は合格することよりも、どんな学生生活を送るかの方がはるかに大事。
誰かの幸せのためにお金や能力を使うのなら、それを欲しいと思うことは我欲ではない。
だから、そう、祈っていいんです!
これこれこういうことのために、○○がほしいんです。
この学校に入って、△△をしたいんです。
今、はっきりした目的が見えていなくても、人のためにできる何かを探すため、ってのもあり。
祈って、そのための努力をしたら(←これ大事)、あとは成り行きに任せたらいい。
うまくいったら神さまにありがとう。
うまくいかなくても、やるだけやったから仕方ないねと思えたら、やっぱり神さまにありがとう。
うまくいかなくて後悔するのなら、それは努力が足りなかった。
手に入れることで得る幸せもあれば、手に入らないことや無くすことで気づく幸せもある。
まさに、昔々の人が言った「人間万事塞翁が馬🐴」。

私は神社仏閣で、自分の幸せも祈ります。
ある日、私は気がついた💡
自分が幸せじゃないと自分以外の誰かの幸せを素直に願ったり喜んだりできないな、と。
義務や人としてこうあるべきって思いで、人の幸せのために動いたとき、心の中にもやもした黒いものが残ることもある。
もやもやした黒いものは少しずつたまって大きくなる。
ふたをして気づかないようにしても、なくなったわけじゃない。
たまった黒いものはどうなるんだろう?
そうなってしまうより、先に自分の幸せを願うほうが潔い気がした。
自分が辛いのに人の幸せを願える、喜べる人って、もはや神か仏の域。
私は人間で、しかもまだまだ修行中。
だから、まずは自分の幸せを祈ります。
まずは自分の幸せを願うけれど、「足るを知る」のも大事。
人の欲はどこまでもきりがないけど、もっともっともっとを願うのは違う。
人や何かと比べた結果、自分が上だから幸せ、というのもなにか違う。
幸せの価値観や基準は人それぞれだけど。
自分を幸せにできるのは物やお金でなくて、自分の心。
「足るを知る」と、自分の周りにあるたくさんの小さな幸せや幸せの種に気づく。
「幸せのハードルは低いほうがいい」と、わが子が私に教えてくれた。
幸せのハードルを下げて、今日も幸せを見つけよう。
見つけたら幸せのおすそ分けをしよう。

最後までお読みいただきありがとうございました。